なくならないもの

死んだらどうなるんだろうか。仮に、永遠に死なないと仮定したら、それはすごく恐ろしいと思った。生き続けるというのも怖いし、永遠に生まれ変わり続けるというのも怖い。だからといって、突然意識がなくなるのも怖い。何が本当のことかわからないけど、人は必ず死ぬと言われている。そのことを事実として受け止めなければならない。
その前提を考えつつ、自分は決して死ぬことはないと思っている。正確には、死を経験することはできないということ。もっというと、死を経験した私は存在しないということ。経験した時点で存在が消えて、意識がなくなっているんだったら、それは経験できないのも同じ。だから、死なない。死ぬことに対して不安を感じることはない。死んだ後のことについて不安に駆られる気持ちはわかるけど、不安に思っても仕方ないということがわかる。
私は死なない、という主観的な結論に達した時、解放感があった。小さい頃から不安で不安でしょうがなくて、時々暗闇の網目状の円形立体空間の中に放り出されたようなイメージが脳裏に浮かんで、大声で奇声を発したくなることがあったけど、今はあまり発生していない。それに、それを振り返ることも減ってきた気がする。調子のいいときは、一日中脳裏にちらつかなくなる日もある。
恐怖や不安に対して、直視して考えることができないから、なるべく考えないようにしてきた。でも、考えないようにすればするほど、脳裏にちらついてしまう。ちょっと焦点を当ててしまうと、そこから数十分間は恐ろしい感覚から抜け出せなくなってしまう。そんなことを繰り返していると、直視して考えられるようになった。その結論が、冒頭の数行。陳腐な結論だとは思うけど、何らかの形で残しておきたいと思った。書き出せるということは、ある程度冷静になったということ。自分にとって問題ではなくなったということ。

死についてのテーマは、既に哲学の世界では語り尽くされている話だと思う。だけど、自分から調べようとは思わなかった。結論(真理?)が知りたいのではなく、腑に落ちる回答が欲しかっただけ。でも、他人から与えられた回答では、納得できなかったと思う。それらしい意見が多数存在していて、それらを採用しても問題はないんだろうけど、自分で無理やり疑問を見つけてほじくり返さない限り、自分の導いた回答を盲信することができる。問いがでなくなった時点で問題とはみなされない。こういうのは、考えすぎの処方箋としては有効かもしれない。
そもそも、考えようとして考えたわけではない。不安で不安でしょうがないのに頭のなかによぎってしまって、直視したくないのに直視してしまったから、仕方なく考えただけ。消極的な結論なのだ。タブーについて、もっと自由に思考したいとおもていたけど、これが自分の限界なのかもしれない。その先を考えようとするには、考えられるだけの耐性がいる。考え続けるためには資質がいるということだろうか。よくわからなくなってきたな。

さてさて、論点を変えてみよう。仮に、ある人と永遠に会えなくなってしまった場合、その人が亡くなったとみなしても良いのではないか、と考えたことがある。永遠に会えないのか、会える可能性はあるけどほぼもう会えないのは一緒じゃないのか。同じなら、他人の死はそこまで悲しむことではないのではないか。そんなことを思った。日常的に、出会いがあり、別れがある。会社をやめてしまった人とはもうコンタクトは取れない。取る手段はあるだろうけど、自分から取ろうとは思わないし、相手からも連絡は来ない。そこで関係性は切れた。関係性が切れた時点で、存在していないものとみなしていいのではないだろうか。
人とあえなくて悲しい、寂しいと思うことはある。でも、普段から断続的に関係性の切断は発生している。だったら、どれも特別視する必要はないんだなと思った。行動する上で、道具が1個なくなった。そんな風に捉えればいいんじゃないかなと思った。この辺りの概念は自分でも整理できていないので、適した言葉は後日探していこうと思う。
何がいいたいのかわからなくなってきたな。とりあえず、目の前のことに集中して生きていきたい。先のことを考えると不安になるし、思考停止してしまう。