長宗我部元親メモ
- 作者: 水谷俊樹,やまざきまこと,加来耕三
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2011/10/14
- メディア: コミック
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・22歳で初陣。
・本山(高知県の豪族)vs長宗我部。長宗我部勝利。四国の桶狭間と言われる。
・中国地方には、一条氏+土佐七雄(とさしちゆう)と呼ばれる有力豪族が割拠していた。
⇒長宗我部は、土佐七雄の中でも一番弱い立場だった。
・土佐七雄
・安芸氏(あきし)
・本山氏(もとやまし)
・香宗我部氏(こうそかべし)
・吉良氏(きらし)
・大平氏(おおひらし)
・津野氏(つのし)
・長宗我部氏(ちょうそかべし) ←
・長宗我部元親は、書物をたくさん読んでいた。
・長宗我部元親は、谷忠兵衛(たに ちゅうべい)という神官に武芸と兵法を学んだ。
・一領具足(いちりょうぐそく):平時は田畑を耕し、戦になると武装して参戦。
⇒領地が狭くても大量の軍勢を動員できる。
・一条を倒し、四国統一に王手をかけた。
・長宗我部元親vs織田信長。織田信長が本能寺の変で明智光秀に打たれ、対決は実現しなかった。
・長宗我部元親vs豊臣秀吉。長宗我部元親は降伏。
・豊臣秀吉の九州平定の戦いで、長宗我部元親も参戦。
⇒島津の釣り野伏(つりのぶせ)で壊滅的な打撃を受ける。
⇒長宗我部信親(のぶちか)討死。
・四男の盛親(もりちか。千熊丸)に長宗我部を継ぐ。
・分国法(ぶんこくほう)、「長宗我部元親百箇条」
⇒戦国大名が領国支配のために制定した法令。
・1599年5月、享年61歳。
メモ
・長宗我部は四国平定に時間がかかり、豊臣秀吉の規模拡大に後れを取った印象。
・長宗我部は、四国で土地が狭かったので、一領具足で参戦していたが、豊臣は農兵分離を実現して専門の軍隊作っていた。また、豊臣が国力・経済力も圧倒的に優勢だった。
・盛親は、関ヶ原の戦いで西軍に属したが、東軍と一戦もしなかった。徳川家康に領土を没収されたが一命を取り留めた。その後京都で10年ほど家に閉じこもる生活をした。大阪冬の陣、夏の陣で大阪城内に入り戦ったが、死に場所に恵まれなかった。落城後、隠れ住んでいるところを捕えられ、首をはねられた。享年41歳。長宗我部の本流は断たれた。
・四国には豪族が多かった。
・四国は海に囲まれているので、外敵から守りやすく国力を蓄えやすいかと思っていたけど、同盟による政略が難しく、一国の軍事力で攻めなければならない印象。
・一条を倒し、土佐を平定した後、四国を平定するまでに時間がかかった印象を持った。1575年土佐平定。1585年に四国平定。
・四国と言えば、四国八十八箇所。
・四国平定までは順調だったが、豊臣秀吉と争った後から衰退していく印象を受けた。麦をすべて刈り取らずにして領民の心をつかんだこともあるのに、盛親が死んだあとから家来の意見を取り入れなくなった。