伊達政宗のメモ

戦国人物伝 伊達政宗 (コミック版 日本の歴史)

戦国人物伝 伊達政宗 (コミック版 日本の歴史)

伊達政宗(だて まさむね)のメモ
・1567年生まれ(永禄十年)、山形県米沢市
梵天丸(ぼんてんまる)
・5歳のとき、天然痘にかかり、右目を失明。
・母親が避けるようになり、内向的な性格になる。
臨済宗僧侶・虎哉宗乙(こさいそうおつ)を教育のために招いた。
・伊達家家臣・片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)守り役となる。
・⇒伊達正宗の右目となり、伊達正宗は自信を取り戻す。
・11歳で元服梵天丸⇒政宗命名される。
・15歳で初陣。
・18歳で家督を譲り受ける。
・畠山義継(はたけやま よしつぐ)に父親(伊達輝宗)を殺される。
・⇒打ち取る。
・1589年6月、蘆名氏(あしな)と佐竹氏(さたけ)連合軍を打ち破った。23000(伊達)vs16000(連合軍)
 ⇒その結果、豊臣秀吉の怒りを買った(蘆名は、秀吉の傘下)
 ⇒母親の義姫(よしひめ)に、伊達家存続のため家督を弟の小次郎(こじろう)に移すために、暗殺計画が出てくる。
・1590年、豊臣秀吉が北条氏を攻める。そこに伊達の出兵を求めた。
 ⇒出兵前に、伊達家を守るために弟の小次郎を手討ちした。
 ⇒白装束で豊臣秀吉に合流。白装束は、死装束を意味していた。
 (蘆名の領地は取り上げられたが、死罪にはならなかった。豊臣は北条を打ち取った)
・豊臣に取り上げられた領地で大規模な一揆が発生し、伊達が納めた。
 ⇒伊達政宗が扇動したといわれた。証拠の手紙はあったが、正式な書名で書かれてなかったため、証拠不十分だった。
関ヶ原の戦い石田三成vs徳川家康。伊達は徳川についた。徳川の勝利。
・仙台に城と城下町を築いた。仙台城
・1611年。宣教師のソテロ、スペイン大使ビスカイノと面会。
・家臣支倉常長(つねなが)をスペインへ送り出した。
・1613年、徳川幕府キリスト教禁止令を発令した。
⇒そのため、スペインとの貿易が暗礁に乗り上げ、軍事力強化の野望は断たれた。
豊臣秀吉の子孫vs徳川家康。2度の戦いで、徳川勝利。豊臣は滅んだ。
・1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣
・1615年、片倉小十郎景綱、享年59歳。
伊達政宗、死に際に妻や子の見舞いを断る。(見苦しい姿は見せられない、と拒んだと伝えられている)



wikipediaメモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
伊達政宗は、福島県山形県宮城県に勢力を築いた。
豊臣秀吉が北条氏討伐時に、豊臣に服属した。
関ヶ原の戦い毛利輝元石田三成)vs徳川家康。徳川勝利。伊達は徳川についていた。
徳川家光に尊敬されていた。伊達の親父殿と呼ばれていたこともある。
・料理が趣味。もともと兵糧開発が主眼だった。
・体に気を使っていた。早く目が覚めても、定時に起こしてもらうまで、起床しなかった。


別メモ
仙台城
伊達政宗歴史館(http://www.date-masamune.jp/
戦国basara(アニメ)の主人公
大阪冬の陣大阪夏の陣
・織田や毛利のように、少人数で大規模な軍勢を倒した、ということはない。だが、攻め時を把握しており、勝てないと判断すると豊臣や徳川勢力に加勢するなど、適切な判断を下していると思われる。領地拡大のために攻めるための大義名分を考えるのは上手だったと思われる。